世の中は想像もつかないくらい広いわけですけれども、一体どういうことになっているのでしょうか。
僕が気にすることができる範囲なんて、文字通り手の届く半径1メートルとか、音が聞こえる数十メートルとか、はっきり見える百何十メートルとか、それでも視界に入る数キロくらいなものです。
テレビや新聞やネットでいろんなことを知った気になっていますが、多分気のせいなんでしょう。

社会人みたいな感じになってこの仕事を始めてから、何かが起ったときに人がどう感じるかとかそれでどう考えてどう動くのかとか、気にするようになるわけです。
もちろん自分以外の人のことなんてわかるはずがないので、いろんな人の気分を想像したり、運よく知り合えた人たちの話をよく聞いてみたり、ちょっとずつ情報を増やしてちょっとずつ想像力を逞しくしていくわけです。
そんなことをしていたら、なんかこんなすごい世の中だけど、結局はひとりひとりは人間なんだ、と気づいたタイミングがあります。
もちろん化け物みたいな人もいて、結局の一個人が底知れぬ何かを持っていたりするわけですが。

でも、結局の一個人なので、すごく普通のことで成り立っているのがこの一瞬一瞬なんだ、と思うのです。
病気になったり、そんな大層なことじゃなくても靴擦れただけで死にそうになったり(これは弊社社長です)、寒いだけで仕事の効率が落ちたり。
そうすると、「気分」とか「雰囲気」とか「好き嫌い」っていうのは自分がわかっているつもりでいるよりもはるかに巨大な影響力を持っているんじゃないか、と最近思うのです。
そう、「この世界のあり方」に対してです。

昨年末に絶体絶命の数日間を経験して、有り体に言えば心を入れ替えてさらに邁進しよう、と思ったのです。
ほぼ字面の通り。

「今のまま」ではこの教訓が生かせないと、これまで常識として諦めていたことや無頓着だったことにも目を向けたのです。
すごくでっかいきっかけがあったわけです。
で、すごくよくある話なんですが、なぜ今までやらなかったのか、と思うことがたくさんありました。
そして、それらが揃いも揃って全然大層なことではない。
強いて言うなら、僕が信じているものの外側にあったことたち、簡単に言うと思い込みの食わず嫌いでした。

新年からのブログ記事で多かった、ちゃんとしたものを買ったらすごく満足できた、と言うのもその一環で。
何か大事なものを妥協してでも安さと機能のバランスを追求するべきという思い込みで、しばらくのあいだ我慢という不幸に甘んじていたなと思うわけです。
もう一つ気づいたのが、調べれば済む、ということ。
なんとなく使えてしまうと、なんとなく使ってしまうんですよね。
普通に暮らしてて椅子の使い方なんて調べないじゃないですか。
弊社事務所では、アーロンチェアというすごくいい椅子が配備されているのですが、「いい椅子だなー」なんて何の気なしに使っていたわけです。
仕事が仕事なんで長時間はきついし肩も凝るよね、なんて状態はしょうがないと思っていたのです。いかにアーロンチェアと言えども。
しかしふと思ったわけです。
「使いこなす」という発想があったのか?と。
で、調べてみたわけです。
「アーロンチェア 使い方」です。
なんとびっくり超快適。
座り位置や足踏み台を入れてなんとか体を合わせていたこれまでの無駄な期間と言ったら。
ggrksを地で行ったなと衝撃を受けた次第です。

仕事で使うソフトなんかもそうなんです。
仕事をしながらさらに広い分野に手を出して、元からそうなのですが独学独学でいきがちなわけです。
触って把握できる範囲で十分動いてくれることもあったりするわけで、ついそのまま使い続けるんです。
でも、基礎を勉強し始めると、「なんと便利な」目からウロコの連続なわけです。
切羽詰まっているときは、調べる時間や体得する時間がもったいなく感じてしまうのですが、トータルで見たら時間的に得しているとは言えなそうです。
なにより、同じ時間を過ごして同じ成果を上げたとして、すごく不幸な気分だということに最近気が付き始めた感じです。

知らなきゃ知らないでなんとでもなるし、慢性的な不満を認識しないでも済むんですが、そうじゃない世界もあるってことですね。
ちょっと大人になってきた気がします。
不満解消を仕事にしてしまっていますしね、無視する手はないわけです。